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福居夜話 第2話 天津神社 その1 〜 由来について 〜

はじめに

 天津神社は、福居の産土神(うぶすながみ)として、長い間氏子の人たちが大切にお祀りしてきた神社です。住民からの寄付によって本殿の建て替えが実現したことはまだ記憶に新しいことですし、神社のお祭り、歳旦祭や秋季大祭は、町内の重要な年中行事として受け継がれてきています。
 天津神社の由来については「舊記・来暦無御座候」(『備前國々中神社記』)ということですが、江戸時代以降、いくつかの文書に神社についての記録があります。福居夜話では、これから3回にわたって、それらの資料を参考にしながら、天津神社の歴史をひもといてみたいと思います。

天津神社のあらまし

 まず、現在の神社のあらましを挙げておきましょう。

一 神社名 天津神社(あまつじんじゃ)。明治2年改号。それまでは「天神社」。
一 社殿等 本殿、幣殿、拝殿、鳥居、石灯籠2基
一 御祭神 少彦名命(すくなびこなのみこと)
一 祭 日 歳旦祭(1月1日)、秋季大祭(10月第4土、日)  祭日には、神事が行われ、「浦安の舞」が奉納されます。
一 宮 司 村岡弘道氏 (北区中山道1-21-6 白髭宮)
一 旧社格 村社
一 鎮座地 岡山市北区津島福居二丁目14-25
一 社 地 岡山市北区津島福居二丁目2238番地(767m2

天津神社の由来について

(1)寛文の寄宮
 岡山の神社の歴史をたどる際に最初に確認をしておきたいのが、江戸時代に岡山藩が実施した神社整理のことです。岡山藩では、寛文6年(1666)、藩主池田光政公の命による「寛文の寄宮(かんぶんのよせみや)」と言われる徹底した神社整理が行われました。当時領内には、1万社を超える神社があったようですが、この中にはいかがわしい神を祀った小社(淫祠)が多く、民を惑わしているとして、村の産土(うぶすな)や由緒がはっきりしている神社以外は、すべて取り壊し、代官が管理する神社に合祀するという施策が実施されました。

 当時の資料(『備前藩領内寄宮記』寛文6年(1666))によりますと、整理の結果、全体の5.5%にあたる612社については存続が認められましたが、全体の実に94.5%の10,528社*が取り壊され、新たに設けられた71の寄宮に合祀されたとのことでした。

 当時の津島村**の状況ですが、このとき津島村では、福居2社、市場2社、西坂5社、奥坂1社の計10社が取り壊されました。存続が許されたのは、福居の「天神社」、津島村の「天神社」及び土生の「八満宮」の3社だけという状況で、津島村においても8割近い神社が取り壊されたことになります。

 *資料では、10,527社と記載されているが、圭室氏の集計結果によった。
 **津島地区の当時の村名は津島村、枝として市場(本村)、西坂、奥坂、新野、福居、羽浮があった。(『備前記』(1700〜1704))

(2)『備前國々中神社記』に見る天津神社等の由来

 『備前國々中神社記』は、延宝3年(1675)に領内の神職組頭から寺社奉行に差し出された神社の記録で、「寛文の寄宮」後の領内の神社がすべて挙げられています。御野郡内では、43の神社が挙げられていますが、そのうちで津島村の部分を引用します。

   「(朱筆)「式」津嶋三ヶ村      (後筆)「神主北方村 西野七郎兵衛」
                      神主南方村 佐々木加賀
     一、天神社
      御宮之儀、氏子老人・庄屋ニ様子尋申候へハ、暦数ハ及一萬年餘ニ申由ニ御座候(以下略)

     同所天神之社地              神主 同人
     一、神祖神社 御寄宮
      寛文七年五月廿五日御鎮座、以上、

    (朱筆)「式カ」福居村           神主 同人
     一、天神社
      右三ヶ村之氏神、天神勧請仕由、舊記・来暦無御座候、以上、

    同村之土生                 神主 同人
     一、八幡宮
      古キ少之社御座候を、氏子共取立、八幡を勧請仕候、舊記・来暦無御座候、以上、」

【引用部分に関する注】
① 4社記載されていますが、2番目の「神祖神社」は、取り壊した神社を合祀するために「津嶋三ヶ村」の「天神社」社地内に新しく設けられた寄宮で、ここには29社が合祀されました。ただし、この寄宮も、正徳3年(1712)には、上道郡大多羅に合祀されます。(正徳の寄宮)
②「津嶋三ヶ村」の「三ヶ村」とは、市場、西坂、奥坂を指すと思われます。
③ 「津嶋三ヶ村」と福居村の「天神社」の記載の冒頭にある「(朱筆)『式』」又は「(朱筆)『式カ』」の「式」とは、「式内社」を意味しています。式内社については、参考①を参照してください。
④ 神主は、いずれも「北方村 西野七郎兵衛」。

 

 さて、当時の津島村には、「津嶋三ヶ村」と福居にそれぞれ「天神社」があったことがわかります。由来についてみてみますと、まず、「津嶋三ヶ村」天神社ですが、長文なので最初の一行だけを引用しています。「お宮のことについて、氏子の年寄り・庄屋に様子を尋ねましたところ、年代は一萬年あまりに及ぶ由にございます。」とあり、神社の歴史が非常に古いことが強調されています。
 次に、福居の天神社ですが、「右の三ヶ村の氏神、天神を勧請した由、旧記や来歴はございません、以上」とあります。「勧請(かんじょう)」とは、「神仏の分霊を他の場所に移しまつること」(『大辞林』)ですから、ここは、福居天神社が津嶋三ヶ村の「天神社」からその氏神である天神を分霊した神社だということです。津島村の本村は市場で、福居はその枝村ということでしたので、あり得ることかと思われます。
 最後に土生の八幡宮については、「古い小さい社がありましたのを、氏子たちが整えて、八幡を勧請いたしました、旧記や来歴はございません、以上」とあります。社の整備や八幡の勧請は、神社整理への対応だったのかも知れません。

(3)天津神社への改号
 天津神社の名称は、江戸時代を通して明治2年までは、「天神社」とされていました。『備陽国志』(元文4年(1739))に次のように記載されています。

    「天神 津島村。所祭少彦名命。 右同断 [創造時代不詳]   *[ ]は補記。以下同じ。
        又天野神社と云。
     天神 福居村。所祭少彦名命。 右同断 [創造時代不詳]
        又天野天神と云。」

 「天神社」の読み方は、「又天野神社と云」「又天野天神と云」とあることから、「天」は「あまの」とも読まれていたようです。津島村の「天神社」が「あまのじんじゃ」とも呼ばれていたとのことですので、区別するために福居では「あまのてんしん」と呼んでいたということかも知れません。

 さて、時代はずっと下がりますが、岡山藩が作成した『神社明細帳』(明治3年(1870))に天津神社は、次のように記載されています。

      「同国同郡津島村之内福井鎮座 [備前国御野郡津島村之内福井鎮座]
    天津神社
       一 本社 壱間四面  幣殿 壱間四面
         拝殿 梁行壱間  鳥居 髙サ六尺
            桁行二間半
       一 祭神 少彦名命  勧請年記不詳
           舊号天神社明治二年改号天津神社

 ここで、明治2年に神社名が「天神社」から「天津神社」に改号されたと記載されています。その理由については、示されていません。が、背景として、この年に三野にあった明現宮(妙見宮、明見宮)が御野郡の式内社天神社(あまつかみのやしろ)に比定されたことと関連があるのではないかと考えられます。
 すなわち、推測ではありますが、明現宮を式内社天神社に比定し、神社名を「復号」して「天神社」としたことから、これと区別するために、それまで「天神社」を名乗っていた御野郡の神社の名称を「天津神社」に改めたのではないかということです。『神社明細帳』によりますと、明治2年に、御野郡にあった津島村天神社、福居天神社、三門八幡宮社地内の天神社及び北方村御崎宮摂社天神社の4社が「天津神社」に改号されています。

(4)由来のまとめ

 さて、現在参照できる天津神社に関する最も古い資料は、『備前國々中神社記』(1675)です。この資料の福居天神社に関する記録から、由来について次のことが言えるのではないかと思われます。

① この資料は、「寛文の寄宮」(1666)後の神社の記録であることから、ここに記録があるということは、少なくとも1666年(今から350年以上前)には、すでに福居の「天神社」は存在し、産土神として祀られていた。
② 記録等がないので、時期は不明だが、津島村「天神社」から「氏神、天神」を勧請したとされていた。
③「(朱筆)『式カ』」と附記があり、当時から式内社天神社ではないかとの説があった。
 さらに、
④ 『神社明細帳』(明治3年)によると、明治2年に神社名が「天神社」から「天津神社」に改号された。

③に関しては、江戸時代の記録『吉備温故秘録』(1789-1801)の中にも、「寛文中改帳には、津島村之枝福居の天神社式内とあり。」との記述が見えますが、上述のとおり、明治2年の明現宮の比定により、一応の決着がついたことになっています。(その1 おわり)(令和5年8月30日 大塚茂、早瀬均)


【参考①】
 式内社とは、『延喜式』(延長5年(927)完成)に登載された官社のこと。官社とは、律令制の時代、毎年の祈年祭に神祇官から幣帛を受ける神社のこと。『延喜式』に搭載された神社を「延喜式内社」、略して「式内社」「式社」と言っている。一般的に、朝廷が認めていた格式ある神社として捉えられる。『延喜式』には、全国で3,132座の神社が搭載されており、その内、備前國は26座、御野郡は以下の8座である。

    石門別神社、尾針神社、天神社、伊勢神社、天計神社、國神社、石門別神社、尾治針名眞若比女神社

 『備陽国志』(1739)では、これらの内、社地だけが残っているものとして天神社と國神社、所在が全くわからないものとして、石門別神社、尾針神社及び尾治針名眞若比女神社を挙げている。
 『備前國々中神社記』(1675)では、御野郡内に「天神社」が3社記載されており、いずれも「(朱筆)『式』」あるいは「(朱筆)『式カ』」と附記されている。


【参考文献】
(1) 圭室文雄. 岡山藩の寺社整理政策について. 関西大学人文科学研究所紀要. 1996, 40, p.363-382.
(2) 岡山藩. 備前藩領内寄宮記. 1666. (『神道大系. 38. 1986』所収).
(3) 岡山藩. 備前国々中神社記. 1675. (『神道大系. 38. 1986』所収).
(4) 和田正尹. 備陽国志. 1739成立. (『吉備群書集成. 第1輯 地誌部. 1970』所収).
(5) 岡山藩. 神社明細帳. 1. 御野郡. 1869. https://www.okayama-jinjacho.or.jp/wp/wp-content/uploads/2021/07/8d7896a9592d2181c2c19e4eaec64285.pdf. (参照 2023-08-25).
(6) 大澤惟貞. 吉備温故秘録. 1789-1801. (『吉備群書集成. 第7輯 吉備温故秘録 巻1-26. 1970』所収).

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